新米小坊主の小話 三鈷杵の意味と祈りの力

こんにちは。広島の作業療法士の川本健太郎です。

今日は、高野山真言宗 僧侶の川本祐道(ゆうどう)として、仏教に関するちょっとした小話(こばなし)をします。

サクッと読めるように心がけていますので、お気軽に読んでみてください。

(*´▽`)ノノ

今日のアイキャッチの画像は、四国八十八ヶ所霊場第十一番霊場 藤井寺(ふじいでら)の山門の写真です。

(*^-^*)

 

三鈷杵の意味と祈りの力


 

お大師さまが高野山を修行の場として決めたきっかけの一つとして

 

三鈷杵(さんこしょ)

 

という密教で用いる法具があったことは過去のブログでお伝えしました。

↓ ↓ ↓

三鈷杵の起源は古代インドの武器で、両端が三叉(みつまた)の鉾(ほこ)になっていたものだと言われています。

これが中央の鉾を中心にして内側に向かった形となり、武器から

 

仏さまの心(=菩提心:ぼだいしん)

 

を表す祈りの法具になったのが三鈷杵です。

鉾はそもそも両刃の剣に長い柄をつけた武器であり、鉾の先が外を向いている限りは争いのもとになりますが、自分自身の内なる邪(よこしま)な心や妬み・嫉妬などの心と戦い、人々の願いのために使うものであれば、それは仏さまの心、すなわち

 

利他の心

 

を象徴するものになります。

三鈷のほかに、密教では両端が一本の鉾となっている

 

独鈷杵(どっこしょ)

 

両端が五叉になっている

 

五鈷杵(ごこしょ)

 

五鈷に鈴がついている

 

五鈷鈴(ごこれい)

 

などがあり、これらの法具を総称して

 

金剛杵(こんごうしょ)

 

と名付けていますが、金剛杵といえば三鈷杵のことを指していることが多いというほど、三鈷杵は重要な法具になります。

 

三つの鉾は、仏様の全てのはたらきの象徴でもある

 

(しん:行動)

(く:言葉)

(い:心)

 

を表していて、密教行者がこれを使って加持祈祷をすることは、仏さまのはたらきを自分自身に加えて、自分自身が仏さまの力を持って世のため人のために力を尽くすことを意味します。

また、過去のブログでもお伝えした

 

三毒(さんどく)

 

すなわち

 

(とん):むさぼり・執着

 

(じん):怒り・憎しみ・妬みの心(嫉妬)

 

(ち):愚かさ・愚痴・無知

 

という三つの毒をコントロールするために、三鈷杵を用いて護摩行念誦(ねんじゅ:心に仏さまの姿を思い描き、仏さまの名前や経文を唱えること)を行います。

↓ ↓ ↓

 

蘇悉地経(そしつじきょう)という中国の唐の時代にインドから長安に来た善無畏(ぜんむい:インドの僧 西暦637年〜735年)によって訳された密教三部経典の一つには

 

「行者手に三鈷杵を執らば毘那夜迦(びなやか)※1も障壁を為さず、又護摩及び念誦の時、 左手にこれを持ちて能(よ)く諸事を成就す、 故に杵を善成就者と号す」

※1.毘那夜迦(びなやか):障害や困難の意味で、 常に行者につきまとって修行の邪魔をするところから常随魔(じょうずいま)と訳され、 これは私たちの内面にある嫉妬心、 執着心、 怠惰心などの煩悩を意味している。 

<織田隆玄:飛行三鈷杵伝説と開創法会より>

 

と記されており、三鈷杵を用いて真剣に祈りを行えば何事においても全てその願いは叶うと言われるほどの法具なのです。

<護摩行について2分ほどの動画で紹介されています>

 

三鈷杵などの法具を用いて、仏さまの力を持って世のため人のために尽くす。

それは人であるからこそ行えることでもあり、私たち人間には不思議な能力がたくさん備わっていることを表していると言えるのではないでしょうか。

 

 

<お大師さまゆかりの地>

 

四国霊場八十八ヶ所

第十一番札所

金剛山 一乗院 藤井寺

(こんごうさん いちじょういん ふじいでら) 

弘仁6年(西暦815年)に、弘法大師(お大師さま)が42歳の厄年にあたって護摩修法を執り行い、自らの厄難を祓うことと人々の安寧を願い、薬師如来(やくしにょらい)を自ら彫刻され、この地にお堂を建てられたと伝わっています。

護摩修法にあたって、八畳岩に金剛不壊(こんごうふかい)と言われる護摩壇を築いて、一七日間にわたって修法をされ、その後お堂の前に5色の藤の花を植えたことから、金剛山藤井寺と称されるようになりました。

<約5の動画で藤井寺の紹介をされています>

藤井寺は真言密教の道場として栄えましたが、天正年間(西暦1573年〜1592年)に戦などで全山を消失しました。

延宝2年(西暦1674年)に阿波藩主が帰依していた臨済宗南山国師(なんざんこくし)という名の高僧が入山して再興し、その折に宗派を臨済宗に改めました。

その後も火災などに見舞われましたが、1860年に伽藍が再建され、現在に至っています。

藤井寺から次の札所(十二番)の焼山寺へは、山を超えながら標高700mまでの苦しい道のりを越えて行かなければならなかったため、古くから『遍路ころがし』と呼ばれていました。

所在地:〒776-0033 徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525

お問い合わせ:0883-24-2384(TEL)

交通アクセス:四国八十八ヶ所霊場會

 

 

皆さんの貴重なご意見・ご感想、大変参考になりますので、お気軽にコメントなどいただけると嬉しいです。

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