こんにちは。広島の作業療法士の川本健太郎です。
今日は、高野山真言宗 僧侶の川本祐道(ゆうどう)として、仏教に関するちょっとした小話(こばなし)をします。
サクッと読めるように心がけていますので、お気軽に読んでみてください。
(*´▽`)ノノ
今日のアイキャッチの画像は、四国八十八ヶ所霊場第十三番霊場 大日寺(だいにちじ)の山門の写真です。
(*^-^*)
どこか不器用なお大師さまの魅力
お大師さまと言えば、嵯峨天皇をはじめ、多くの人々との交流を通じて真言密教の教えを広めていかれたことは過去のブログでもお伝えしています。
また、平安時代を代表とする筆(書)の名人であり
三筆(さんぴつ・さんひつ)
とも称されることが多く、その筆は嵯峨天皇をはじめ多くの人々を魅了してきました。
そんなお大師さまに、嵯峨天皇が屏風を所望されたことがあるのですが、お大師さまはあまりの忙しさに屏風を献上する締め切りに間に合わず、嵯峨天皇にお詫びの書状を提出されました。
↓ ↓ ↓
そこに書かれた内容だけをみると、お大師さまはちょっとイラッとしていたのかもしれないことが窺い知れます。
( *//`ω´//)
こうしたお大師さまの姿勢は、他の人に対しても
「おやっ?」
( ◔◔ ? )
と思わずなってしまう場面でも知ることができます。
例えば、お大師さまと同年代を生きた仏教史上最も有名な人物の一人でもある
伝教大師最澄
(でんきょうだいしさいちょう)
(西暦766/767年〜822年)
とのやり取りにおいても知ることができます(ここでは『お大師さま=空海』としてお話をします)。
空海と最澄は年齢で言えば最澄の方が年上です。
また、空海と最澄が交流をはじめた頃の立場でいうと、最澄は
内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)
という、桓武天皇の傍に仕える地位にあり、また、桓武天皇の要請で日本で最初の
密教の公式の灌頂(かんじょう)
を執り行うほど、空海よりも遥かに高い地位にいました。
空海が中国の唐から帰国し、朝廷に献上した
御請来目録(ごしょうらいもくろく)
を最澄は内供奉十禅師の立場で目を通し、そこに書かれてあった内容から、最澄が持ち帰った密教が
「十分ではない」
∑( ̄[] ̄;)ガーン!
ことを実感したと言われています。
そこで、最澄は空海に
「密教教典を貸してください」
(人≧へ≦)オネガイ!
と言います。
空海はもちろんその要請に応じて最澄に密教の教典を貸し出します。
また、空海も最澄が所有している経典を必要としていたため、経典の貸し借りなども含めて空海と最澄は何度も手紙でのやりとりを行います。
そんな中、最澄は面会を希望します。
年齢的にも立場上も本来であれば空海の方が最澄のところに赴くのが当たり前と思われていましたが、この時の状況が
『風信帖(ふうしんじょう)』
という、空海が最澄に宛てた手紙の中に残されています。
その中の『拾遺雑集(しゅういぞうしゅう)』によると
「あなた(最澄)からお借りした『摩訶止観(まかしかん=経典の一つ)』を贈ってもらった御礼にも、あなたがおられる比叡山に伺いたいのですが、一身上の雑事でそれがままなりません。
一緒に仏教を広めて仏恩に報じるためにも、ご足労ですが、私の居る乙訓寺(おとくにでら)までおいで願えますか。」
と記されています(現代語訳をしています)。
要するに
「忙しいからこっちに来てくださいな」
(o・ω・)ノヨロ♪
と言っているのです。
実際、最澄は812年(弘仁3年)には、乙訓寺に空海を訪ねています。
┐(´~`)┌ヤレヤレ…
こうした内容を見ていると、最澄が大人の対応をしているようにも見えますね。
また、嵯峨天皇の次の代の淳和天皇(じゅんなてんのう:西暦786年〜840年)から
少僧都(しょうそうず)
という僧侶の位(くらい)を賜るはずでしたが、その位を辞退する上奏文では
「わたくし空海は、20歳の頃より50歳になるまで、禅定(ぜんじょう:瞑想)を修することを目的として、山林を己の住処としておりました。
そのため、世の中のことには経験が無いので、それに携わることは煩わしくて堪え難いものがございます」
(n´Д`)ムリ~
と言っているのです。
天皇からの勅(ちょく:天皇の命令)に従わないというのは、それだけでも
大問題に発展
するだけでなく
下手をすると命がない
( ヽ゜ロ゜)ヒイィ!
のですが、淳和天皇はそのことを問題に取り上げず、この後の830年(天長7年)にお大師さまへ仏教のことをまとめるように勅を出しています。
それに答えたお大師さまは『秘密曼荼羅十住心論』十巻を著し、後にこの書を要約した
『秘蔵宝鑰(ひぞうほうろん)』
三巻を著したところを見ると、少僧都を断ったことに対して淳和天皇もまた嵯峨天皇と同様にお大師さまへの理解を示していたとも言えます。
(*´-ω・)キニシテナイヨ♪
ただひたすらに真言密教を弘めるため、世のため人のためを強く思う気持ちで前に進んでいたお大師さま。
超人的な伝説の多いお大師さまにあって
どこか不器用でこうした人間味のあるところ
もまた、お大師さまの魅力として多くの方々の信仰を集めているのかもしれないですね。
<お大師さまゆかりの地>
四国霊場八十八ヶ所
第十三番札所
大栗山 花蔵院 大日寺
(おおぐりざん けぞういん だいにちじ)
弘仁6年(西暦815年)に、弘法大師(お大師さま)がこの地を訪れ、『大師が森』と呼ばれるところで護摩修法をされている時に大日如来が出現して
「この地は霊地なれば一字を建立すべし」
と告げられたそうです。
そこでお大師さまは、自ら大日如来を彫り、それを御本尊としてお堂を建立されました。
<約4分の動画で大日寺の紹介をされています>
戦国時代、相次ぐ大火に見舞われ、また、明治の神仏分離令(しんぶつぶんりれい)など、度重なる苦難を経ながらも、人々の篤い信仰に支えられて今に至っています。
しあわせ観音
境内には樹齢100年をこえる巨木の側に、人々のしあわせを祈る『しあわせ観音』がおられ、訪れる人々を暖かく見守ってくださいます。
所在地:〒779-3132 徳島県徳島市一宮町西丁263
お問い合わせ:088-644-0069(TEL)
交通アクセス:四国八十八ヶ所霊場會
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