新米小坊主の小話 戦国時代に活躍した名僧 太原雪斎

こんにちは。広島の作業療法士の川本健太郎です。

今日は、高野山真言宗 僧侶の川本祐道(ゆうどう)として、仏教に関するちょっとした小話(こばなし)をします。

今回はいつもよりボリュームがありますが、基本的にはサクッと読めるように心がけていますので、お気軽に読んでみてください。 

(*´▽`)ノノ

 

その智謀は神の如しと評された 太原雪斎


 

戦国時代にはさまざまな武将が活躍し、その中でも

 

軍師(ぐんし)

 

の存在は家の存亡にも関わることでもあったため、戦国大名はこぞって優秀な軍師を求めました。

↓ ↓ ↓

 

戦国大名に仕えた人の中で、僧侶という立場をそのままに

 

大名を教育する立場

軍師としての役割

国内の政治を補佐する役割

強い権限を持った外交官としての役割

 

として後の世にもその名が知られる人物がいます。

 

その智謀(ちぼう)は神の如し

 

と評され、駿河・遠江(現在の静岡県)を治めていた戦国大名の今川家に仕えた

太原崇孚雪斎

たいげんすうふせっさい

(西暦1496?年〜1555年)

は今川家だけでなく、東の北条家、北の武田家、西の織田家、果ては足利将軍家といった有力大名にまでその影響を及ぼし

 

黒衣の宰相(こくいのさいしょう)

 

とまで呼ばれた人物です。

太原崇孚雪斎は太原雪斎として知られていますが、本名は「崇孚(すうふ)」であり、「雪斎(せっさい)」というのは駿河国の駿府(現在の静岡県静岡市)の臨済寺(りんざいじ)にあった太原崇孚の住まいの名前です。

今回は多くの人によく知られている

 

太原雪斎

 

の名前で話を進めていきます(以下、雪斎と称します)。

 

駿河生まれの雪斎は、駿府にある

 

善得寺(ぜんとくじ)

 

に10歳の時に入り、その後、京都の臨済宗建仁寺派(りんざいしゅうけんにんじは)の大本山

 

建仁寺(けんにんじ)

 

で18年間修行をして、将来は建仁寺を背負って立つほどの人物になると言われるほど、将来を期待されていました。

しかし、永正16年(1519年)に駿河の大名であった

 

今川氏親(いまがわうじちか:西暦1471年〜1526年)

 

に5番目となる芳菊丸(ほうきくまる)、のちの今川義元(いまがわよしもと)の教育係として、氏親は建仁寺で修行をしていた雪斎を駿河に呼び戻しました。

当時、雪斎は27歳という若さであり、いくら建仁寺で将来を期待されていたとはいえまだ修行中でもあった雪斎を氏親がなぜそこまでして駿河に呼び寄せたのかについては、いまだに解明されていない部分も多いのですが、のちに起こる今川家の後継者争いである

 

花倉の乱(はなくらのらん:西暦1536年)

 

の結果や、義元が今川家を正式に継いでからの雪斎の活躍を見れば、氏親が雪斎を見込んだ目は間違いではなかったと言えるのではないでしょうか。

今川氏親には、長男の氏輝(うじてる)がいて、芳菊丸の2人の兄もすでに仏門に入っていました。

雪斎と芳菊丸は、雪斎自身が最初に学んだ善得寺に入り、その後2人は建仁寺で学び、さらに臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の大本山

 

妙心寺(みょうしんじ)

 

へ移り、学びを深めていきます。

この頃、芳菊丸は出家・得度をして

 

栴岳承芳(せんがくしょうほう)

 

と名前を変えます。

ちなみに、雪斎と栴岳承芳とは、年齢が23歳ほど離れているとはいえ、今川家の後継者候補でもある栴岳承芳は立場的には雪斎よりも上にあたるはずですが、雪斎の教育方針は

 

非常に厳しかった

喝!!( #゚д゚)=○)゚Д)゚、;’

 

ようであり、栴岳承芳が何度も雪斎の元を逃げ出そうとしたという逸話もあるくらいです。

雪斎にとって、栴岳承芳は国主の子であるということはもちろん認識していましたが、雪斎を信じてついてきてくれる

 

とても可愛い弟子

。・゚・(Д゚(○=(゚ω゚=)ヤッパリ喝ジャ!!

 

でもあったように思えるのは、栴岳承芳が今川義元を名乗り、戦国時代有数の大名に成長してもなお雪斎のことを心から尊敬してその教えに忠実だったことからも2人の間の信頼関係は非常に強かったことが伺えます。

ソレデモ喝ジャ!!!ヽ(#゚Д゚)ノ┌┛(ノ´Д`)ノ

 

今川氏親が亡くなり、長男である氏輝が家督を継いでから9年が経った頃、雪斎と栴岳承芳は氏輝から駿府に戻るように言われます。

氏輝23歳、栴岳承芳17歳、雪斎40歳の時であり、妙心寺から駿府に戻った雪斎と栴岳承芳は再び駿府の善得寺に入り、雪斎は善得寺の住職になります。

 

雪斎と栴岳承芳が駿府に戻った翌年の天文5年(1536年)に氏輝が急死し、氏輝のすぐ下の弟の彦五郎(ひこごろう)も同じ日に死亡するという出来事が起こります。

氏輝とその後継者とされていた人物を同時に失った今川家は大混乱します。

そして栴岳承芳とともにすでに出家していた異母兄の玄広恵探(げんこうえたん)との間で後継者争いが勃発します(花倉の乱)。

花倉の乱で、雪斎は氏輝・栴岳承芳の実母である

 

今川寿桂尼(いまがわじゅけいに:生年不詳〜1568年)

 

の力を借りるとともに、将軍でもある

 

足利義晴(あしかがよしはる:西暦1521年〜1546年)

 

に家督相続を認めてもらうための工作を進め、また、今川家の親戚でもあり、今川家の東側に巨大な勢力を持っていた

 

北条氏綱(ほうじょううじつな:西暦1487年〜1541年)

 

に支援を依頼し、その結果、玄広恵探は自害し、栴岳承芳は将軍の一字である

 

『義』

 

を与えられ、のちに

 

海道一の弓取り(かいどういちのゆみとり)

 

と評される戦国大名

 

今川義元

いまがわよしもと

(西暦1519年〜1560年)

 

がここに誕生しました。

 

雪斎は家督を継いだ今川義元を政治・軍事の面で大きく支え、天文6年(1537年)には、それまで仲が悪かった甲斐(今の山梨県)の

 

武田信虎(たけだのぶとら:西暦1494年〜1574年)

 

の娘(武田信玄の姉にあたる人物)を義元の妻として迎え入れるとともに、武田晴信(武田信虎の息子でのちの武田信玄)の妻として今川家の親戚にあたる公家(くげ:いわゆる貴族)の三条公頼(さんじょうきんより)の娘を嫁がせて武田家と同盟を結ぶなど、外交面でもその手腕をいかんなく発揮しました。

雪斎の外交手腕はこれにとどまらず、天文23年(1554年)に武田晴信(信玄)、北条氏康(ほうじょううじやす:1515年〜1571年)に働きかけ、駿河の善得寺で今川家と武田家と北条家それぞれのトップが直接顔を合わせという前代未聞の

 

善得寺会盟(ぜんとくじかいめい)

 

という歴史的にも非常に重要な場面の設定も雪斎が積極的に動き

 

甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)

 

に繋がりました。

軍事においては、天文11年(1542年)に織田信長の父親でもある織田信秀(おだのぶひで:西暦1510年〜1551年)に対して、自ら

 

1万余りの大軍

 

を率いて織田信秀の軍を撃破し(第一次小豆坂の戦い)、その後、天文17年(1548年)に再び織田信秀との戦いにおいて、織田信秀の息子でもある織田信広を捕らえ、織田家の人質となっていた松平竹千代(まつだいらたけちよ:のちの徳川家康)との人質交換の交渉・実施を行う(第二次小豆坂の戦い)など、軍事面でも今川義元を大きく支えていたのです。

僧侶としては、天文14年(1545年)には駿府に

 

臨済寺(りんざいじ)

 

を開寺し、自らは第二世の住職となり、天文19年(1550年)には、本山でもある京都の

 

妙心寺の第35代住職に就任する

 

とともに、駿河における臨済宗妙心寺派の寺院の支援を行うなど、現在の臨済宗妙心寺派の普及へと繋がっています。

 

教育者

軍師

政治家

外交官

僧侶

 

としてさまざまな役割をこなした雪斎の働きは、その道の専門家でもある

 

スペシャリスト

 

であると同時に、いくつもの役割を同時に行って全てをうまく繋げていくという

 

ゼネラリスト

 

として、当世にも後世にもその名を知られることになるだけではなく、こうしたゼネラリストとしての人材はいつの時代も重宝されるということを今に伝えているように思います。

 

 

<戦国武将ゆかりの地>

 

大龍山 臨済寺

(だいりゅうさん りんざいじ) 

<画像引用:Wikipedia

臨済寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は大龍と言います

今川氏親が出家した息子の栴岳承芳(のちの今川義元)のために、太原雪斎を招いて建立した善得院を前身に持つお寺です。

<約13分くらいの動画での今川氏ゆかりの地の紹介をされています>

天文5年(1536年)に栴岳承芳の兄であり、今川家当主の今川氏輝が死去したため、家督を継いだ今川義元が氏輝を弔うために善得院から名を臨済寺に改めて開きました

臨済寺は松平竹千代(のちの徳川家康)が雪斎のもとで学んだ場としても知られ、境内には「竹千代君手習の場」、国の重要文化財でもある「本堂」、国の名勝に指定された「臨済寺庭園」などの他、今川義元公・氏輝公・太原雪斎の木像、歴代今川家当主の位牌などが安置されています。

所在地:〒420-0885 静岡県静岡市葵区大岩町7−1

お問い合わせ:054-245-2740(TEL)

交通アクセス:静岡市観光ガイド『臨済寺』

 

 

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