新米小坊主の小話 お大師さまと同時期に唐に渡った橘逸勢の話

こんにちは。広島の作業療法士の川本健太郎です。

今日は、高野山真言宗 僧侶の川本祐道(ゆうどう)として、仏教に関するちょっとした小話(こばなし)をします。

サクッと読めるように心がけていますので、お気軽に読んでみてください。 

(*´▽`)ノノ

今日のアイキャッチの画像は、復元された遣唐使船の写真です。

(*^-^*)

 

『三筆』の一人、橘逸勢(たちばなのはやなり)の唐への留学とその後


 

お大師さまは、平安時代を代表する

 

筆(書)の名人

 

として有名です。

平安時代

 

弘法大師(お大師さま)

 

嵯峨天皇

 

と、本日の話の主役である

 

橘逸勢(たちばなのはやなり:西暦782年?〜842年)

 

を加えた3人は

 

『三筆(さんぴつ・さんひつ)』

 

として知られています。

 

804年に橘逸勢とお大師さまは一緒に遣唐使船に乗って中国の唐の都に入ります。

お大師さまは入唐して2年ほど経った頃、日本から国使(こくし:今でいう外交官僚)として来ていた

 

高階遠成(たかしなのとおなり)

 

に帰国のための嘆願書を出して、日本に帰ることが許されます。

この時、橘逸勢も

 

「私の帰国の嘆願書も書いてもらえないでしょうか」

 

とお大師さまに嘆願書の作成を依頼します。

のちの『三筆』の一人に名を連ねることになる橘逸勢も、行きの遣唐使船が漂流した時に、お大師さまが州の長官宛に送った嘆願書のことなどを知っていただけに、自分が書くよりもお大師さまに書いてもらったほうが効果的だと思ったのではないでしょうか。

↓ ↓ ↓

橘逸勢は、わざわざ嘆願書までを作ってまで、なぜ唐から帰国しようと思ったのでしょうか。

実は、橘逸勢は唐の都で言葉の壁に阻まれ、学校に行くことができず、かろうじて

 

琴(こと)

 

を習っていたようですが、その謝礼も支払えないほど、金銭的に困っていたようです。

しかもこの時は、書についてはあまり自信がなく、むしろ琴に方に自信があったようです。

嘆願書にはこのように書かれていたと言われています。

 

「わたくし橘逸勢は、唐と日本とで言葉が違って通じず、今もって学校で学ぶことができないでいます。

とりあえず習うところを見つけてきて、琴と書道を学んではいますが、時は虚しく過ぎ去って、学資金も底をついてしまいました。

この琴を天皇の前で演奏させていただくことを、ただ願うばかりです。」

『性霊集巻第五』

(ノД`;)ガックリ

金銭的にも困り、自信をなくしていたところに、さらにお大師さまが日本に戻るということになって、橘逸勢もいてもたってもいられなくなったのかもしれません。

それでも、書に関しては

 

柳宗元(りゅうそうげん:西暦773年〜819年)

 

という書の大家から学び、橘逸勢にことを唐の人は

 

橘秀才(たちばなのしゅうさい)

 

と呼び、賞賛していました。

嘆願書は受け入れられ、橘逸勢はお大師さまとともに日本に帰ることになります。

日本に戻った橘逸勢は、琴と書での第一人者となるのですが、唐から帰国して36年後に彼を悲劇が襲います。

 

承和9年(西暦842年)、嵯峨上皇がなくなって2日後に、朝廷への反乱の疑いをかけられ、橘逸勢は伴健岑(とものこわみね)とともに捕らえられてしまします。

皇太子であった恒貞親王(つねさだしんのう:西暦825年〜884年)も巻き込んだ

 

承和の変(じょうわのへん)

 

と呼ばれる国内の争いは、当時、権力をつけてきた藤原良房(ふじわらのよしふさ:西暦804年〜872年)による他の勢力の追放であり、同じ藤原氏であっても一族とは異なる家の者をことごとく追放し、名門でもあった橘氏や伴氏(大伴氏)への粛清という非常に苛烈なものでした。

橘逸勢は京の都から伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)に流罪となるだけではなく、橘の姓を『非人』という「あなたは人間でない」という意味の名前に無理やり変えさせられます。

(ノдヽ*)ヒドイ

 

失意の中、伊豆へ護送される途中の遠江国(現在の浜松市三ヶ日本坂)で、橘逸勢は60歳の生涯を閉じたのでした。

橘逸勢の書がほとんど残っていないのは、この『承和の変』に際して、関係するものを処分されたからとも言われています。

橘逸勢の書として残っているとされる

 

親王願文(いとないしんのうがんもん)

 

は、現在は宮内庁に保管されていますが、これも橘逸勢のものなのか、いまだに議論が続いています。

お大師さまと同時代に唐に渡り、書や琴などで名声を得た橘逸勢でしたが、朝廷内の政権闘争に巻き込まれ、失意のままこの世を去りました。

橘逸勢の死後20年が経った貞観5年(西暦863年)に、神泉苑で執り行われた御霊会(ごりょうえ:思いがけない死を迎えた者の御霊による祟りを防ぐための鎮魂のための儀礼)によって、橘逸勢はその名誉を回復するのですが

 

どんなに優秀な人であっても

 

時の権力者と異なる立場という理由だけで

 

その身を滅ぼしてしまう

 

ことに対する世の不条理を、御霊会に臨んだ人々も、当時の人々も強く思ったに違いありません。

 

 

<橘逸勢を祀る地>

 

<画像引用:Wikipedia

御靈神社(上御霊神社)

ごりょうじんじゃ(かみごりょうじんじゃ) 

桓武天皇の時代に各地で疫病が流行していたことが怨霊の祟りだとして、延歴13年(794年)に早良親王(さわらしんのう)の御霊をこの地に祀ったのがはじめとされます。

3分半くらいの動画で御靈神社の紹介をされています>

御祭神(ごさいしん)として、崇道天皇(早良親王)、井上大皇后(いのうえおおひきさき)、他戸親王(おさべしんのう)、藤原大夫人(ふじわらたいふじん)、橘逸勢(橘大夫)、文大夫(ぶんだいふ)、火雷神(からいしん)、吉備真備(吉備大臣)を本殿八座(ほんでんはちざ)としてお祀りしています

1くらいの動画で御靈神社の神幸祭の紹介をされています>

毎年5月1日には上御霊神社・下御霊神社で神幸祭(社頭之儀)が執り行われ、京都御苑内で神幸祭の神輿を勇壮な男たちが巡行させ、氏子らが「ヨイヤッサー」「ヨイヨイ」という掛け声とともに練り歩きます。

所在地:〒602-0895 京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊堅町495

お問い合わせ:075-441-2260(TEL) 

交通アクセス:御靈神社ホームページ

 

 

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