新米小坊主の小話 お大師さまがめっちゃ怒る!?

こんにちは。広島の作業療法士の川本健太郎です。

今日は、高野山真言宗 僧侶の川本祐道(ゆうどう)として、仏教に関するちょっとした小話(こばなし)をします。

サクッと読めるように心がけていますので、お気軽に読んでみてください。

(*´▽`)ノノ

今日のアイキャッチの画像は、四国八十八ヶ所霊場第十四番霊場 常楽寺(じょうらくじ)の本堂の写真です。

(*^-^*)

 

お大師さまがめっちゃ怒る!?


 

前回のブログでは、数々の超人伝説で語られたり、様々な奇跡を起こしたとされるお大師さまにあって、どこか不器用で人間味があったのではないかといったことをお伝えしました。

↓ ↓ ↓

そこには、お大師さまが仏教における先輩でもある伝教大師最澄(でんきょうだいしさいちょう)や時の天皇である淳和天皇(じゅんなてんのう)に対して、見方によっては

 

とても失礼

(;・д・Aソリャシツレイ…

 

とも捉えられるような対応をされていることが書いています。

そんなお大師さまですが

 

家族や親族に対しても結構言いたいことを言っている

 

ことも記録に残っています。

お大師さまの父親・母親に関しては、以前ブログでも紹介した『女人高野(にょにんこうや)』以外での関わりについての記録はほとんどありません。

↓ ↓ ↓

数少ない資料の中では、産まれた時から神仏の御加護をご両親が感じていたことや、お大師さまが幼い頃には、才能が極めて優れてるとされる

 

神童(しんどう)

 

と言われていたことからすると、ご両親のお大師さまへの期待はとても大きかったように思います。

しかし、お大師さまはご両親の意向である

 

立派な官僚

 

になって欲しいために入学した大学をあっさり辞めてしまい、仏門の道へと進まれます。

それでもご両親はお大師さまのために陰ながら惜しみない支援をしています。

一方、お大師さまに直接的な支援(学問的・金銭的・政治的な支援)を行っていた、母方の伯父である

 

阿刀大足(あとのおおたり)

 

は両親に代わってお大師さまを実質的に支援し続けます。

学者であり、天皇の傍で学問を教える

 

侍読(じとう)

 

でもあった阿刀大足は、お大師さまのゆく末を心から案じて両親に代わって

 

かなり厳しいこと

ヽ(∴` Д ´)ノ彡ナンデジャー!

 

も言っていたようです。

 

それは

 

「海のものとも山のものとも分からない新しい仏教にこの子(お大師さま)が傾倒してもいいものだろうか」

「書や詩文の才能があふれるこの子(お大師さま)は官僚の方が立身出世(りっしんしゅっせ)できて両親も安心するのではないか」

*´゚Д゚)。o○ダイジョブナンカ?

 

という、今から思えば当時としてはとても現実的な思いから、お大師さまの仏門入りを何度も思い留めようと試みています。

それに対するお大師さまの気持ちをあわらした一文が『三教指帰(さんごうしいき)巻上』に残されています。

 

「ここに親族のひとり、阿刀大足と多くの知り合いの知識人がいて、わたくし空海を枠の中に縛りつけようとして、儒教で説く、人として守るべき仁・義・礼・智・信の五つの道を持ち出し、わたくし空海が忠義と孝行の道からそれていると言ってたしなめてくる。

・・・釈迦の教えと老子・孔子の教えの何れ違ども、そのどれもみな聖人の教えであり、その一つである仏道に入ることによって、忠孝に背いたことにはならないはずだ。

・・・また母方の甥(阿刀大足の息子のこと)がいるが、こころがねじれてしまっていて、狩猟をし、酒を飲んでは女遊びを楽しみ、いつも博打をしている。

それは環境が悪いからなのだ。

・・・・(この一文を以て)論陣を張って出家の意志を示し、合わせて蛇蝎(だかつ:人が嫌っているもの)されている甥を戒めんとするもので、『三教指帰』と名付けた。

ただただ憤懣(ふんまん:めっちゃ腹が立つ)やるかたない高ぶる気持ちを書き記したもので、身内以外の人に読んでもらうことは望んでいない。」

 

これだけを見ると、お大師さまが

 

めっちゃ怒っていた

(# ゚Д゚)ンダヨコラァ!!

 

ことが窺い知れますね。

若気のいたりと言いたいところですが、阿刀大足に対しての怒りは

 

なんだか筋違い

 

にも見えますし、阿刀大足の息子(お大師さまの甥)に対するコメントは

 

「お前(阿刀大足)の息子の方がよっぽどダメじゃん」

ヽ(`Д´#)ノヒトノコトイエルンカ!?

 

と阿刀大足へ皮肉たっぷりに言っていることがわかります。

その根底には

 

「なんで身内でさえ、私の本意が分からんかね〜!?」

(#´Д`).ヤッテランネェ…

 

とたまりにたまった鬱憤(うっぷん)が思わず出てしまったように思います。

あるいは、親子間の思いに関しては

 

「他人の尺度で親孝行がどうのこうのと言わないでよ」

「私には私の親孝行の考えがあるし、自分の決めた道を進んでるんだから、そのこともちゃんと認めてよ」

٩(๑`^´๑)۶ワカッテルサ!

 

というお大師さまの強い信念があるように思えます。

 

こんなことを言われながらも、阿刀大足はお大師さまが仏門に入って修行をしている間も、遣唐使の費用がない時も、お大師さまをしっかりとサポートしていました。

また、お大師さまが遣唐使の期間を勝手に短縮して帰ってきた後の朝廷への働きかけや、寺を建立する時の土地やお金の工面も、阿刀大足の支えなしではうまくは行かなかったことも多かったのも事実です。

結果的には、阿刀大足も

 

「お前(お大師さま)がそこまで言うなら信じよう」

(,_,*)ワカッタヨ…

 

になったのだろうと思います。

 

自分の信念のためには、時として激しい怒りの面を持ち合わせたお大師さま。

 

自分の道は自分で決める

 

というのは、現代にも通じる考えでもありますね。

 

それにしても、まさか身内だけに見て欲しいと望んでいた『三教指帰』が

 

国宝

 

になって大事に保管され、密教の根本教義として読み伝えられるようになるとは、お大師さまも夢にも思わなかった(?)かもしれないですね。

(;´∀`).アチャー…

 

 

<お大師さまゆかりの地>

 

四国霊場八十八ヶ所

第十四番札所

盛寿山 延命院 常楽寺

(せいじゅざん えんめいいん じょうらくじ) 

弘仁6年(西暦815年)に、弘法大師(お大師さま)がこの地を訪れて修行をされてた際に、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現されたことに感動され、弥勒菩薩像を彫られ、御本尊とされました。

弥勒菩薩を御本尊とするのは、四国霊場八十八ヶ所ではこの常楽寺だけであり、お大師さまがご入定(にゅうじょう:高野山の奥の院に入られる)際には

「私が入定した後、兜率天(とそつてん:天界の最も霊験あらたかな山)に行き、弥勒菩薩さまの御前にまいります。そして56億年後に必ず弥勒菩薩さまとともに再び世に現れ、私が行ってきたことを(この地で)確認したいと思います(現代語訳)」

と触れられています。

<約4分半の動画で常楽寺の紹介をされています>

後に、大師の甥である真然僧正(しんねんそうじょう:今回のお話に出てくる阿刀大足の息子とは別の人です)が金堂を建て、また高野山の再興で知られる祈親上人(きしんしょうにん)によって講堂や三重塔、仁王門などが建立されて、七堂伽藍がそびえる大寺院となりました。

戦国時代、相次ぐ戦火に見舞われ、多くの建物が消失しましたが、江戸時代を通じてお堂が再建され、そのほとんどが現在まで残されています。

所在地:〒779-3128 徳島県徳島市国府町延命606

お問い合わせ:088-642-0471(TEL)

交通アクセス:四国八十八ヶ所霊場會

 

 

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