新米小坊主の小話 ひとつのことを極め抜く

こんにちは。広島の作業療法士の川本健太郎です。

今日は、高野山真言宗 僧侶の川本祐道(ゆうどう)として、密教に関するちょっとした小話(こばなし)をします。

サクッと読めるように心がけていますので、お気軽に読んでみてください。

(*´▽`)ノノ

今日の『お大師さまゆかりの地』は、今回のお話の主人公である高岳親王(たかおかしんのう)にもゆかりがある四国八十八ヶ所霊場第三十五番霊場 清瀧寺(きよたきじ)です。

(*^-^*)

 

ひとつのことを極め抜く


 

お大師さまが活躍された平安時代、天皇を中心とする

 

律令体制(りつりょうたいせい)

 

に陰りが出始め、代わって天皇の親戚となって朝廷での発言力や影響力を高めるという、のちの

 

摂関政治(せっかんせいじ)

 

が少しずつ見え始めた頃、お大師さまと嵯峨天皇は

 

薬子の変(くすこのへん)

 

という今で言うところの

 

クーデター騒動

 

に巻き込まれてしまいます。

薬子の変については、過去のブログでもお伝えしていますので、まだ読んでおられない方はこの機会に是非一読いただけるとありがたいです。

↓ ↓ ↓

平城上皇側と嵯峨天皇側との争いは、嵯峨天皇の勝利に終わり、平城上皇側についた人々は厳しい処分を受けることとなりました。

そしてここに、薬子の変でその後の人生が大きく変わった人物がいます。

高岳親王

たかおかしんのう

<写真引用:Wikipediaより>

高岳親王は平城天皇(上皇)の第三皇子であり、平城天皇が嵯峨天皇に譲位してからは、嵯峨天皇のもとで

 

皇太子

 

となっていました。

本来であれば、嵯峨天皇のあとは高岳親王が次代の天皇になるはずでしたが、薬子の変に伴い、高岳親王は皇太子の座を追われてしまいます。

高岳親王自身が薬子の変に関与したという記録は残っていないのですが、平城上皇に連座するという形になってしまったようです。

以後、高岳親王は苦しい日々を送られるのですが、薬子の変から12後、ようやく名誉を回復することができました。

名誉を回復された高岳親王は仏門に入ることを誓い、出家され

 

真如(しんにょ)

 

と名乗られ、お大師さまのもとで修行をされます(なお、この記事では真如親王ではなく高岳親王で統一した表現をしています)。

お大師さまのもとで高岳親王は厳しい修行の日々を送られ、ついに

 

お大師さまの十大弟子の一人

 

に名を連ねるようになり、高野山に

 

親王院(しんのういん)

 

を開かれました。

承和2年(835年)にお大師さまが高野山の奥の院に入定された時には、高弟の一人として立ち会われたと言われています。

 

普通であればお大師さまの弟子として、その後の人生は高野山をはじめとする真言密教の道場で過ごすことが当たり前かもしれません。

しかし高岳親王は違いました。

 

「お大師さまがもたらした仏教の真髄を極めたい!」

(๑•̀д•́๑)キワメル!

 

との思いから、お大師さまが入定されて約25後、薬子の変からは半世紀後の貞観3年(861年)、すでに

 

60を越えていた

 

高岳親王は、朝廷に唐に渡って仏さまの教えを求める(入唐求法:にゅうとうぐほう)ことを願い出て、貞観4年(862年)に九州の太宰府を出発され、2年がかりで唐の長安に到着されました。

ちなみにお大師さまが入定されたのが

 

61

 

と伝えられているので、この時代にあって高岳親王はかなりのご高齢であったことが分かります。

高岳親王は唐の長安で、お大師さまも滞在された

 

西明寺(さいみょうじ)

 

を拠点に仏教の師匠を求めます。

それはまさにお大師さまが師匠である

 

恵果阿闍梨(けいかあじゃり)

 

と出会い、真言密教の真髄を余すことなく受け継いだことにも由来していたようでした。

 

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しかし、高岳親王が唐に渡った頃、唐において密教をはじめとする仏教は著しく衰退し、代わって道教(どうきょう)が仏教になりかわって唐における中心的な思想になっていたため、高岳親王が求めるような仏教の優れた師匠は見つかりませんでした。

しかし高岳親王は諦めません。

 

「ならば、仏教発祥の地である天竺(インド)を目指すまで!」

(๑•̀д•́๑)アキラメナイ‼︎

 

と唐の皇帝に願い出て、3人の従者とともに広州から天竺へと向かわれたのです。

しかしその後の高岳親王の足取りは不明となってしまいます。

 

それから16年後の元慶5年(881年)、唐に居た留学僧の中瓘(ちゅうかん)という人物から

 

「高岳親王はマレー半島の南の羅越国(らえつこく)でお亡くなりになった」

(。> ω<。)

 

との報告が日本にもたれされました。

高岳親王が亡くなられたとされる場所は、現在のマレーシアのジョホール・バル付近だと言われています。

現在、ジョホール・バルの日本人墓地には、高野山親王院の関係者が日本から運んだ御影石(みかげいし)で造られた高岳親王の供養塔が建てられています。

 

薬子の変によって、皇太子を廃され、自身の人生が大きく変わった高岳親王。

しかしそれによって人生を投げ出すのではなく、仏門に入り、お大師さまのもとでの修行をされる中で、仏教の真髄を極めたいと志し、高齢でありながらも唐に渡り、さらに天竺を目指した高岳親王。

ひとつのことを極めぬかんとした高岳親王の志しと行動力は、どこか冷めた時代とも言われる現代社会において、私たちの心のあり方に問いかけているのかもしれないですね。

 

 

<お大師さまゆかりの地>

 

 

四国霊場八十八ヶ所

第三十五番札所

醫王山 鏡池院 清瀧寺

(いおうざん きょうちいん きよたきじ)

清瀧寺は、養老7年(723年)に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)がこの地を訪れた時に、霊気を感得して薬師如来像を彫られ、これを本尊として影山密院 釋本寺(えいざんみついん しゃくほんじ)として開山されたのが初めとされています。

弘仁年間(810年〜824年)に弘法大師がこの地を訪ね、本堂から300mほどの岩山に壇を築き、五穀豊穣を祈願して閼伽井権現(あかいごんげん)龍王権現りゅうおうごんげん)に七日間の修法をされ、最後の七日目の結願の日に岩の上を金剛杖(こんごうつえ)で突いたところ、清水がこんこんと湧き出て滝になったことが寺の名前に由来になったとされています。

<約4分の動画で清瀧寺を紹介しています>

この清水は、田畑を潤すだけではなく、和紙の原料である三椏(みつまた)をさらして紙を漉く(すく)うえでも重宝され、高知県を代表する土佐和紙産業(とさわしさんぎょう)を興すことにも貢献しています。

<三椏の花>

清瀧寺は本堂の屋根よりも高い大きな薬師如来がシンボルであり、厄除け祈願の寺としてもその名を知られています。

<薬師如来立像>

今回のお話でご紹介した高岳親王(たかおかしんのう)が弘法大師の夢のお告げで出家して真如(しんにょ)と名乗り、唐に渡る直前にこの寺を訪ねて息災増益を祈願して、五輪塔を建立したとされています。

なお、この五輪塔は高岳親王塔と呼ばれていますが、この塔は高岳親王が生前に建立した墓標(逆修の塔:ぎゃくしゅうのとう)であることから、この塔のある一帯は聖域とされ、立ち入りを禁止されています。

所在地:〒781-1104 高知県土佐市高岡町丁568-1

電話:088-852-0316

交通アクセス:四国八十八ケ所霊場會

 

 

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