こんにちは。広島の作業療法士の川本健太郎です。
今日は、高野山真言宗 僧侶の川本祐道(ゆうどう)として、密教に関するちょっとした小話(こばなし)をします。
サクッと読めるように心がけていますので、お気軽に読んでみてください。
(*´▽`)ノノ
今日のアイキャッチの画像は、今回のブログ記事の内容でもある東寺(とうじ)の写真です。
(*^-^*)
お大師さま『東寺』を賜る
真言密教の根本道場としては
高野山
はとても有名な場所ですが、お大師さまと言えばもう一つ忘れてはならない場所があります。
それは京都にある
東寺(とうじ)
というお寺です。
東寺は実は略称で、正式名称は
教王護国寺(きょうおうごこくじ)
と言います(今回の記事では『東寺』で用語を統一します)。
弘仁14年(西暦823年)、お大師さま50歳の時に、嵯峨天皇が退位される3ヶ月前に賜ったのが東寺です。
嵯峨天皇から淳和天皇に代が変わった弘仁15年(西暦824年)に、お大師さまは正式に
造東寺長官(東寺の最高責任者)
となられました。
そもそも東寺はお大師さまが賜る27年前の延歴15年(西暦796年)に桓武天皇(西暦737年〜806年)によって国が管轄する
官寺(かんじ)
として建てられたもので、この時には平安京の南面にある
羅城門(らじょうもん)
を挟んで、東に建てられたものが東寺で西に建てられたものが
西寺(さいじ)
でした。
お大師さまは既に弘仁7年(西暦816年)に嵯峨天皇から高野山を賜っていたので、この時点でお大師さまは真言密教の総本山とも呼べる重要な場所を2箇所任されていたと言えます。
しかし東寺は、その開創から全てをお大師さまの裁量に任せていた高野山とは異なり
平安京を守る国家守護のための重要な拠点
だったので、すでに伽藍(がらん:建物)が整備され、関係する他の宗派なども東寺の管理に携わっていました。
お大師さまが東寺を賜った時に、朝廷によって決められた大きな出来事として
ひとつの寺にひとつの宗派
とうことが認められたということです。
それまでの官寺は決まり事として
ひとつの官寺には複数の宗派が同時に存在する
ことが慣例でしたが、東寺をお大師さまに任せるにあたってその決まりが変更され
東寺は真言密教の僧だけが止まって住む(止住:しじゅう)ための道場
ということが天皇の勅命によって許されたのです。
今ではひとつの寺にひとつの宗派が当たり前ですが、この東寺をお大師さまが授かった時が実は初めてだったのです。
さらにお大師さまは東寺を授かるにあたり、国家守護としての寺の意味を強めるために、天皇に上奏して名前を
教王護国寺
に変更する旨を伝えて、許可されました。
ちなみに、平安時代を代表する五大官寺(ごだいかんじ)と呼ばれていたお寺は
東大寺(奈良県)
興福寺(奈良県)
延暦寺(滋賀県)
東寺(京都府)
園城寺(滋賀県)
であり、この中で東寺のみが教王護国寺に名前を変えています。
官寺の名前を変えることや、ひとつの寺にひとつの宗派とすることだけでも
日本の仏教寺院では前例がない
ことでした。
時の天皇の援助を受けながら日本の仏教に大きな変革をもたらしたお大師さま。
その思いはひとえに
国のために日本の仏教のあり方を常に考えていた
と言えるのではないでしょうか。
<お大師さまゆかりの地>
真言宗総本山
教王護国寺 東寺
(きょうおうごこくじ とうじ)
平安京に都を移した時に建てられた東寺は、国立の寺院として今もその姿を当時の面影そのままに遺しています。
お大師さま自身がプロデュースされた国宝・重要文化財の仏像が多く安置されています。
紅葉の季節にはライトアップがされ、五重塔が美しく輝いています。
<約3分半の動画で東寺の紹介をされています>
嵯峨天皇からお大師さまに託された東寺は、日本で初めての密教寺院として、密教の主尊である大日如来を境内の中心にすえて、広大な寺院の中に曼荼羅を表現しています。
<約1分の動画で曼荼羅の紹介をされています>
お大師さまの住まいである御影堂(みえどう)では、今でもお大師さまがいらした時と同じように、一の膳、二の膳、お茶をお出ししています。
所在地:〒601-8473 京都府京都市南区九条町1
電話: 075-691-3325
交通アクセス:真言宗総本山 教王護国寺 東寺ホームページ
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