新米小坊主の小話 戦国武将 毛利元就が遺した言葉と仏教の教え

こんにちは。広島の作業療法士の川本健太郎です。

今日は、高野山真言宗 僧侶の川本祐道(ゆうどう)として、仏教に関するちょっとした小話(こばなし)をします。

サクッと読めるように心がけていますので、お気軽に読んでみてください。 

(*´▽`)ノノ

今日のアイキャッチの画像は、厳島神社(いつくしまじんじゃ)の大鳥居と本殿の写真です。

(*^-^*)

 

戦国武将 毛利元就が遺した言葉と仏教の教え


 

戦国時代、わずか1代で中国地方11か国を制した武将

毛利元就(もうりもとなり:西暦1497年〜1571年)

 

のことは、戦国時代をあまり知らない人でもその名はよく知られています。

75歳(満74歳)でその生涯を閉じるまでの間

 

二百数十回にわたる戦

 

を重ね

 

戦国一の智将(ちしょう:知略に長けた武将)

 

としても知られています。

また、毛利元就の息子として

 

毛利隆元(もうりたかもと:西暦1523年〜1563年)

 

吉川元春(きっかわもとはる:西暦1530年〜1586年)

 

小早川隆景(こばやかわたかかげ:西暦1533年〜1597年)

 

毛利元就の孫として、関ヶ原の戦い(西暦1600年)で西軍の総大将をつとめた

 

毛利輝元(もうりてるもと:西暦1553年〜1625年)

 

も戦国武将としてよく知られています。

 

毛利元就は、わずか10歳で親の死別や兄との別れ、部下の裏切りなどがあって自分の土地を追われます。

その元就を救ってくれたのが、亡き父親の側室だった

 

杉の大方(すぎのおおかた:生年不詳〜1545年)

 

でした。

幼い元就(子供の頃の名前は松寿丸:しょうじゅまる)を懸命に育てるとともに

 

「毎日、朝日を拝んで、御仏(みほとけ)への感謝の気持ちを込めて念仏を10遍ずつ唱えるのですよ」

 

と繰り返し元就に言い聞かせていたと伝えられています。

のちに、元就自身も当時を振り返るように

 

「10歳の頃に、私は大方(杉の大方)さまと一緒に旅の御坊様の話を聞いてとても素晴らしいと思い、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ」

 

と言っています。

 

そんな元就は、次第に力をつけ、妻や子供にも恵まれ、戦国大名としての実力をメキメキと発揮していきます。

毛利の領土はみるみるうちに広がり、吉川家、小早川家といった有力な勢力に対しては、息子二人を養子に入れつつ毛利に取り込むなど、周辺勢力を次々に毛利の家臣にしていきました。

自分の息子である毛利隆元、吉川元春、小早川隆景といった身内の力で勢力を大きくしてきた元就ですが、ある大きな悩みを抱えていました。

それは3人の息子たちが

 

予想以上に仲が悪かった

Σ( ̄ロ ̄lll)

 

ことでした。

もともと、とても個性的な3人でしたが、長男の隆元は優しい性格ゆえに統率者としての強さに欠ける部分があり、弟である元春と隆景はそんな兄をみて敬遠して寄り付かず、その元春と隆景はそもそも性格が真反対で仲が悪かったようです。

一説によれば、元春と隆景は、幼い頃に雪合戦をして、その時に隆景が上手な罠を仕掛けて元春に勝ったことを元春がずっと根に持ってた、なんていう話もあるくらいですから、相当仲が悪かったんでしょうね。

そんな3人の将来と毛利家の行く末を思い、元就は14カ条からなる

 

『三子教訓状(さんしきょうくんじょう)

 

を送っています。

その手紙の中には

 

「毛利の苗字が末代まで廃(すた)れぬように心がけること」

 

「元春と隆景は他の家を継いだが、毛利を忘れてはならない」

 

「3人力を合わせ互いを助けること」

 

「側室の子供たちとも仲良くすること」

 

「毎日祈願を欠かさないこと」

 

「厳島神社を信仰すること」

 

などが書かれていました。

特に、杉の大方から元就自身が教えられたことでもある

 

「毎日、朝日を拝んで、御仏(みほとけ)への感謝の気持ちを込めて念仏を10遍ずつ唱える」

 

ことを息子たちにも守るように約束させたことは、すでに亡くなっている元就の妻である妙玖(みょうきゅう:西暦1499年〜1545年)のことを想ってのことでもあります(教訓状の第7条でも妙玖のことをしっかりと供養しなさいと言っています)。

優しく書いてあるかのような教訓状ですが、正直なところ広島弁で言うと

 

「おどりゃぁ、たいがいにして仲良ぅせぇや!」

(*`皿´*)/ オドリャ~

(お前ら、いい加減に仲良くしなさい!)

 

と言いたかったのだと思います。

元就からの教訓状に対して、3人の息子は連署をもって

 

「堅く誓います」

m(_ _)m

 

との誓いの書を提出し、それ以後、毛利家を吉川・小早川両家が結束して支える

 

毛利両川(りょうせん)体制

 

が確立され、毛利家を兄弟が結束して支え、西日本一の大勢力になっていくのです。

<毛利家の家紋『一文字三つ星』>

元就自身、さまざまな謀(はかりごと)やたぐい稀なる戦略・戦術で毛利家を大きくした一方で

 

御仏への感謝の気持ち

 

家族みんなが力を合わせる必要がある

 

そのためには皆が毎朝祈願するという共通の行いで心を一つに通わせる

 

といった、仏教の根本の教えでもある感謝と慈しみの心を大切にすることが、家の存続には欠かせないことだということを伝えたかったのかもしれないですね。

 

 

<戦国武将ゆかりの地>

 

厳島神社

(いつくしまじんじゃ) 

厳島神社は西暦593年(推古天皇の代)に創建されたとされる、歴史ある神社であり、松島(宮城県)、天橋立(京都府)とならび、安芸の宮島として日本三景(にほんさんけい)の一つとして知られています。

お祭りしている神様は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)であり、御皇室の安泰や国家鎮護、海の守り神として古くから多くの信仰を集めてきました。

<約4の動画で厳島神社の紹介をされています>

厳島神社のある厳島は、古くから神仏習合(しんぶつしゅうごう)の地とされており、古来の神様と仏教とが融合した場所としても知られており、厳島神社の他にも山岳信仰の地でもある弥山(みせん)、真言宗御室派の大聖院(だいしょういん)、高野山真言宗の大願寺(だいがんじ)など、厳島には神様と仏様が融合した土地として、毎年多くの参拝客で賑わいます。

宮島観光絵図 出典:日本三景 宮島リーフレット>

毛利元就は、弘治元年(西暦1555年)に陶晴賢(すえはるかた)をこの厳島の地で破り、中国地方における勢力拡大へとつなげていきました。

厳島神社を戦火に巻き込んでしまった元就ですが、その後は厳島神社を厚く信仰していたことは『三子教訓状』や当時を思わせる石垣跡からもうかがい知ることができます。

所在地:〒739-0588 広島県廿日市市宮島町1-1

お問い合わせ:0829-44-2020(TEL) 0829-44-0517(FAX)

交通アクセス:厳島神社ホームページ

 

 

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2 件のコメント “新米小坊主の小話 戦国武将 毛利元就が遺した言葉と仏教の教え

    1. oliveさま
      コメントありがとうございます^^
      参考になったとのこと、とても嬉しいです。
      またお気軽にコメントをいただけますとありがたいです(*^^*)

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