新米小坊主の小話 お釈迦さまの時代の医療と仏教

こんにちは。広島の作業療法士の川本健太郎です。

今日は、高野山真言宗 僧侶の川本祐道(ゆうどう)として、仏教に関するちょっとした小話(こばなし)をします。

サクッと読めるように心がけていますので、お気軽に読んでみてください。

(*´▽`)ノノ

今日の『お大師さまゆかりの地』は、四国八十八ヶ所霊場第三十三番霊場 雪蹊寺(せっけいじ)です。

(*^-^*)

 

お釈迦さまの時代の医療と仏教


 

お釈迦さまの時代をはじめとする古(いにしえ)より、仏教と医療は切っても切れない関係にありました。

日本においても、江戸時代の末くらいまでは、僧侶の『僧』と医療の『医』と書く

 

僧医(そうい)

 

と呼ばれる人たちが当たり前におられたことは、大河ドラマや時代劇などで領主や武将が病に倒れている場面で、僧侶のような格好をした人が寝所に待機していたり、お薬のようなものを処方されたり、脈拍や呼吸を見ながら看取りまでをされたりしているところから窺い知ることができると思います。

鎌倉時代に書かれたとされている

 

平家物語

 

の冒頭では

 

祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

 

という一説があります。

祇園精舎の鐘の声がどんなものであったは過去のブログにも記載していますので、ぜひご興味があれば参考にしてください。

↓  ↓ ↓

 

祇園精舎というのは、お釈迦さまが仏教を開かれた頃に、お釈迦さまの熱心な信者さんたちがお釈迦さまのために建てた

 

仏教の修行道場

 

です。

そして祇園精舎には、現代では皆さんも知っている

 

ホスピス

 

に近いような施設があり、人生の最後を間近に控えた人々に対して、僧侶自らが医療を施しながら

 

癒し

救い

 

をもたらしていたと伝えられています。

そのホスピスの世話になっている人々は、医療行為を受けながらも

 

僧侶の法話を聴いて心穏やかに過ごせるようになる

修行者とともに読経をして仏さまの教えを学ぶ

 

などを行いながら、人生の最後を安寧に迎えることができる取り組みをしていたようです。

そして、祇園精舎で亡くなられた人がおられた日には、僧侶たちの読経とともに

 

祇園精舎の鐘が打ち鳴らされた

 

と言われており、無事に成仏できることを誰もが心の底から願ったとされています。

亡くなられた方を弔う鐘ですから

 

「この世は常なく変わっていくものだ」

(´∩`。)

 

とする諸行無常の一説にあるように、旅立った人を偲ぶとともに

 

人の世は生老病死を繰り返しながら

時の流れは淡々とそして残酷にも移り変わっていくものだ

 

とする寂しい気持ちをも鐘の音に乗せていたように思います。

お釈迦さまの時代から、仏教は

 

生きるための智慧

 

としても知られてきましたが、人生の最後を迎える人のために

 

医療行為の行える僧侶が非常に重要な役割を担っていた

 

ということが分かります。

現代の医療においては、ホスピスや終末期ケアを積極的に行なっている施設や在宅ケアにおいて、僧侶が関わることが増えてきてはいますが、僧侶が関わることがどうしても

 

葬式

 

を連想させてしまい、病院に僧侶が赴くと周りの人たちがギョッとされることも依然として多いのも事実です。

しかし、元をたどれば医療も仏教も切っても切れない関係にあること、そして生きるための智慧はすなわち

 

死生観にも繋がること

 

がより多くの人々にも理解されるようになってくれば、現代医療の中にも仏教が当たり前のように存在する日も来るのではないでしょうか。

 

 

<お大師さまゆかりの地>

 

四国霊場八十八ヶ所

第三十三番札所

高福山 幸福院 雪蹊寺

(こうふくざん こうふくいん せっけいじ) 

雪蹊寺は幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立っている桂浜から西へ約4kmほどのところに建つ寺院であり、臨済宗妙心寺派の寺院として知られています。ちなみに、四国八十八ヶ所では第11番札所の藤井寺と雪蹊寺の2寺院が臨済宗妙心寺派の寺院です。

お大師さまが弘仁6年(815年)に開創されて際には山号にもなっている高福寺が元々の寺の名前でした。

雪蹊寺 大師堂

鎌倉時代になると、名仏師の名前の高い運慶(うんけい)とその長男の湛慶(たんけい)がこの寺に滞在し、運慶が本尊である薬師如来像と脇侍である日光・月光菩薩像を謹刻して納め、湛慶は毘沙門天像吉祥天像善膩師童子像(ぜんにしどうじぞう)を謹刻して納めたとされています。そのこともあり、寺の名前を慶運寺と改めました。

しかし慶運寺は一時廃寺となってしまいます。

雪蹊寺 梵鐘

廃寺となった慶運寺を再興したのは、戦国大名でもあった長宗我部元親公であり、元親の宗派である臨済宗の寺院から月峰和尚を招き、初代住職として寺を再建しました。

元親の死後、四男の盛親があとを継ぎ、長宗我部家の菩提寺とするとともに、元親の法号から寺の名前を雪蹊寺と改め、今日に至っています。

長宗我部信親 墓所

<名前の変遷>

高福寺(平安時代)→慶運寺(鎌倉時代)→雪蹊寺(安土桃山時代〜現代)

<約5の動画で雪蹊寺の紹介をされています>

長宗我部家をはじめとする大名たちの篤い指示を受けていた雪蹊寺でしたが、明治初頭の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という仏教排斥運動の影響を受け、再び廃寺となってしまいましたが、明治12年に再興を許され、明治44年には多くに人々の篤い支援によって、ほぼ現代に残る形にまで再興することができました。

所在地:〒781-0270 高知県高知市長浜857-3

お問い合わせ:088-837-2233(TEL)

交通アクセス:四国八十八ヶ所霊場會

 

 

 

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2 件のコメント “新米小坊主の小話 お釈迦さまの時代の医療と仏教

  1. こんにちは。
    仏教徒医療の深い関係、知りませんでした。
    祇園精舎が現代でいうホスピスだったということも。
    生きるための智慧は死生観にもつながる、なるほど納得です。

    1. KEIKO OKADAさま
      いつもコメントありがとうございます^_^
      祇園精舎は修行の場であるとともに、現代で言うところのホスピスも兼ね備えていたんです。
      それは生きることと亡くなることは等しくもあり、移り変わりゆくものでもあるという仏教の根本的な教えにも通じるものなんです。
      なかなか難しい印象もある仏教ですが、少しでも身近に感じていただけたら嬉しいです♪
      またお気軽にコメントをいただけると嬉しいです(*^_^*)

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