新米小坊主の小話 戦国武将たちの人生哲学

こんにちは。広島の作業療法士の川本健太郎です。

今日は、高野山真言宗 僧侶の川本祐道(ゆうどう)として、仏教に関するちょっとした小話(こばなし)をします。

サクッと読めるように心がけていますので、お気軽に読んでみてください。

(*´▽`)ノノ

今日の『戦国武将ゆかりの地』は、高野山奥之院です。

(*^-^*)

 

戦国武将たちの人生哲学


 

戦国時代(15世紀末から16世紀末)を駆け抜けた

戦国武将

 

戦国武将は歴史好きの人々にさまざまな影響を及ぼし、今でも根強い人気を誇っています。

そんな戦国武将は常に死と隣り合わせにありましたが、現代まで残っている多くの書物などからは、当時の戦国武将たちが

 

死は一生の終わりではなく

来世への入口

 

と考えていたことが伺えます。

その考え方の根本には、仏教によって古くから信じられていた

 

前世(ぜんせ)

現世(げんせ)

来世(らいせ)

 

の概念が大きく関係していたと言われています。

当時の人の寿命が約50年であったことを考えると、現世での短い50年よりもその先の長い来世での世界に思いを馳せることは自然な流れであったとも言えますし、たとえ肉体は失われても

 

霊魂は肉体を離れて西の果ての浄土という名の来世に至り

その霊魂は阿弥陀如来(あみだにょらい)の導きによって成仏する

 

という考えもごく自然に受け入れられていたようです。

そして来世では、ご先祖さま・友人・知人とともに暮らし、短い現世でやり残したことは来世でゆっくりと行えばよいとも捉えていたようです。

そのため、霊魂が永遠に滅びないのであれば、現世にこだわるのではなく、むしろ来世こそ人間の本来の住む場所であるとの自覚を持ち

 

戦場で儚く散ったとしても

それは新たな旅立ちの儀式であり

だからこそ旅立ちの前には

それにふさわしい準備を怠らないこと

 

に心血を注ぎ、覚悟を決めていました。

いざ戦となっての出陣当日は、食べ物や飲み物や行動を慎み、清らかな水を浴びて体を清めるという

 

斎戒沐浴(さいかいもくよく)

 

をして髷(まげ)を結んで身なりを整え、先祖代々から伝わる兜(かぶと)の底に

 

魔除けのお札

 

を貼り、鎧の下にお経や仏さまの名前(名号:みょうごう)を書いた清浄な衣(浄衣:じょうえ)を身につけ、馬に乗る場合は

 

美しく馬を飾り立て

 

神さま・仏さまの御加護が得られるように、梵語の呪文である

 

陀羅尼(だらに)

 

を繰り返し唱えて魔を祓いながら、戦場に向かったと言われています。

掲げる旗印(はたじるし)にも仏さまへの尊敬の念を忘れずにいたこともよく知られており、たとえば、江戸幕府を開いた

徳川家康

(1543年〜1616年)

徳川家康は、戦にあたり、先祖である松平家に代々伝わる旗印である

 

厭離穢土(えんりえど)

欣求浄土(ごんぐじょうど)

 

を旗に掲げていました。

厭離穢土は、(けが)れたこの世を、厭い(いとい)離れること

欣求浄土は、心から喜んで浄土に往生することを願い求めること

を意味し

 

汚濁にまみれた現世を離れ

御仏のおられる清々しい浄土に

心の底から渡りたい

 

との願いを込めて、常にこの理想を掲げて戦に臨んだとされています。

そして戦場においては

 

身命を賭して戦い

この身の最期を悟れば

潔く旅立つことが武将の美学の極地であり

その姿を見届けた者たちは

その子孫に武将の最期を詳しく語って聞かせ

子孫たちもこれを長く後世に伝えて武門の誇りにした

 

と言われています。

 

戦国武将たちの人生哲学には、仏教が深く関係していたことが伺えるとともに、いつ命を落とすか分からない中でも

 

身も心も常に美しく在り

来世へ正しく旅立つことで

自分の霊魂だけではなく

後の世の子孫が

立派な先祖であったと胸を張って言える

その覚悟を常に持ち合わせる

 

そんなことを思いながら、戦に臨んでいたことが伺えます。

そしてそれは、混沌とした現代社会を生きる私たちにとって、戦国武将の人生の哲学は自分自身の人生における

 

覚悟のあり方

 

を問いかけているのかもしれないですね。

 

 

<戦国武将ゆかりの地>

 

高野山 奥之院

高野山奥之院は高野山の信仰の中心であり、お大師さまが入定されている聖地でもあります。

一の橋から御廟(ごびょう)まで、およそ2キロの道のりには、およそ20万基を超える諸大名の墓石、祈念碑、慰霊碑の数々が立ち並ぶとともに、樹齢千年を越える杉木立が奥之院全体を守るかのように並んでいます。

奥之院 一の橋

一の橋はお大師さまの御廟に向かう表参道入り口で最初に渡る橋です。

正式には大渡橋(おおばし)と言われ、お大師さまが人々をここで送り迎えしてくださると言い伝えられているため、参拝者はこの橋の前で合掌一礼してお参りをします。

薩摩藩 島津家墓所

伊達政宗公墓所

石田三成公墓所

一の橋から御廟に向かう参道には、戦国時代に名を馳せた武将の墓所が多く建てられ、お大師さまの御元で祀られており、その武将にゆかりある人々や思い入れのある人々が訪れています。

しろありの碑

ヤクルトの碑

また、現在の日本を代表する企業の慰霊碑や祈念碑なども建てられています。

水向け地蔵

奥之院を流れる玉川の清流を背に、金仏の地蔵菩薩や不動明王や観音菩薩が並んでおり、奥之院に参拝する人々は御供所で水向塔婆を求めて、この地蔵尊に納めて手を合わせ、水を手向けてご先祖さまへの祈りを捧げています。

<約10分の動画で奥の院を紹介しています>

奥之院 御廟橋

奥之院の最深部の大師御廟の手前にある御廟橋(ごびょうのばし)から先は霊域とされ、この橋を渡る人は橋の前で服装を整え、礼拝して清らかな気持ちで霊域に入ります。

この橋は36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界の37の仏さまを表していると言われており、橋板の裏には仏さまのシンボルである梵字が刻まれています。

所在地:〒648-0294 和歌山県伊那郡高野町高野山550

電話:0736-56-2002

高野山マップ:悠誘高野山

 

 

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