新米小坊主の小話 お大師さまと南都六宗

こんにちは。広島の作業療法士の川本健太郎です。

今日は、高野山真言宗 僧侶の川本祐道(ゆうどう)として、密教に関するちょっとした小話(こばなし)をします。

サクッと読めるように心がけていますので、お気軽に読んでみてください。

(*´▽`)ノノ

今日のアイキャッチの画像は、四国八十八ヶ所霊場第二十番霊場 鶴林寺(かくりんじ)の山門の写真です。

(*^-^*)

 

お大師さまと南都六宗


 

お大師さまが生まれるずっと前、大和国(やまとのくに=現在の奈良県)に都が移され

 

平城京(へいじょうきょう:西暦710年〜784年)

 

が栄えるようになると、平城京には

 

南都六宗(なんとろくしゅう)

 

と呼ばれる国家公認の宗団が形成されました。

 

「あの、北斗の拳に出てくる南斗聖拳と関係あるんですか!?」

(*・`o´・*)退かぬ!媚びぬ!省みぬ!

 

と、たまに聞かれますが、残念ながら全然関係ありません

 

南都六宗は

 

三論宗(さんろんしゅう)

法相宗(ほっそうしゅう:興福寺 薬師寺 元興寺

華厳宗(けごんしゅう:東大寺

律宗(りっしゅう:唐招提寺

成実宗(じょうじつしゅう)

倶舎宗(くしゃしゅう)

 

であり、現存するのが赤字で書いた3つの宗派と関連寺院です。

南都六宗の特徴としては、宗派というよりは

 

互いに教義を学び合う学問仏教

 

という要素が強く、東大寺を中心に盛んに交流が行われていました。

しかし794年、桓武天皇が都を今の京都にあたる

 

平安京(へいあんきょう)

 

に移すとともに、南都六宗をはじめとする奈良仏教との事実上の離別を決めます

よく、「平安時代が成立したのはいつですか?」という質問に

 

「なくよ(794年)ウグイス平安京!」

(・∀・)Pゴロデオボエタ!

 

と言う方も多いと思いますが、実際には

 

「なくし(794年)たものは、寺と坊さん」

(*゚Д゚)ノ⌒゚ポィ

 

だったんですね。

時の天皇が奈良仏教から新しい仏教への転換を図った理由は諸説ありますが

 

仏教が学問体系からなかなか脱しないこと

権力闘争の舞台になることが多かったこと

朝廷の施策にしばしば口出しをすることが多かったこと

密教などに代表される現世利益など実学の要素が強く求められるようになったこと

 

などから、平安時代には天皇からの支援も目に見えて減って行きました。

加えて、平安時代には

 

伝教大師最澄

弘法大師空海

 

という2人の天才が出現して、最澄は天台宗を、空海は真言宗を確立し、平安を代表する2つの巨大宗派が誕生しました。

このうち

伝教大師最澄

奈良仏教と徹底して論争することで、天台法華宗の正当性を主張しようとし、幾度となく南都六宗とも対立してきました。

南都六宗の一つ、法相宗の論客であった会津(あいず:今の福島県)の徳一(とくいち)との間での

 

三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)

 

という仏教宗論は仏教の世界においてはとても有名な論争です。

このほか、最澄は南都六宗によって行われている授戒(じゅかい:修行者・信者が守べき戒を授けること)は小乗仏教(しょうじょうぶっきょう)の授戒に過ぎないから

 

比叡山に大乗仏教の戒を授戒する戒壇(かいだん:儀式を行う壇)の設置を願う

 

と朝廷に奏上し、奈良仏教から完全に比叡山は独立し、延暦寺で独自に僧侶を養成できる制度の確立を目指しました。

この時も、南都六宗の元興寺(がんごうじ)の護命(ごみょう)僧正が真っ向から反対し、最澄と南都六宗との間は

 

非常に険悪なムード

(ノ`・Д・)ノヤンノカ!ヽ(゜Д゜〆 )

 

だったようです。

しかし

弘法大師空海

(お大師さま)

は南都六宗をはじめとする奈良仏教との対立よりも

 

融和をはかる態度に終始していた

 

ことがうかがえます。

まず、戒壇のことで最澄と対立していた護命僧正に対しては、829年に

 

元興(寺)の僧正大徳の八十を賀する詩

 

を贈り、護命僧正の八十歳祝賀の宴を設けています。

宴の席でお大師さまは

 

護命は僧正として待遇されておられますが、本当の徳行はまさに仏そのものに近いのです。

そこでわたくし空海は、その徳を尊んで、妙なる音楽で彩られた祝賀の宴を設けて、護命僧正の八十歳をお祝いしました。

親しいものも、仲の良くないものでさえ、護命僧正の高徳・長寿を歓び寿ぐ(ことほぐ)ほどで、高邁(こうまい:気高く優れている)な護命僧正は、まさに国の宝というべき人なのです。

(*゚▽゚ノノ゙☆パチパチ

 

となんとも歯の浮くような祝辞を贈っています。

また、『三一権実諍論』で最澄と激しく対立した徳一には、815年にはお大師さまの弟子にあたる康守(こうしゅ)に、お大師さまが唐で学んできた秘蔵の法門の書写などに名香(めいこう:仏前に焚くお香)1包みを添えて届けさせています。

そして手紙の中で、徳一のことを菩薩(ぼさつ)とまで称してその人徳を讃えています。

 

陸州徳一菩薩法前謹空

お香を一包同封いたします。

ささやかなものですが、私の誠意のあるところを汲み取ってくだされば幸いです。

重ねて謹空

٩(๑>◡<๑)۶

 

とあります。

またある時、お大師さまは南都六宗の僧侶の罪の恩赦を願う上奏文を書いたりもしており、お大師さまと南都六宗との関係は

 

極めて良好だった

(◯´∀`人´∀`◯)

ことが窺い知れます。

お大師さまと最澄との違いは考え方の違いというのもありますが、そもそも大学を途中で辞めてしまって仏道修行していたお大師さまにとっては

 

教典論書を読むにしても、それを所有しているのは東大寺などの奈良時代からの官寺だったこと

修行も南都六宗の僧侶と交流しながらのものだったこと

 

だったことから、そもそも南都六宗とは良い関係を作っていたからだとも思われます。

お大師さまが入定(奥の院に入られる)されてからも、真言宗の大切な修法を執り行うための上奏文において、南都六宗の反感や反対などはなく、また、南都六宗も密教を取り入れるようになり、むしろ積極的に支援しています。

 

南都六宗と激しく対立した最澄。

かたや融和を図った空海(お大師さま)。

どちらが正解というのはありませんが、日本の仏教が時代とともに変遷していく中での他宗派との関係を見ていくと、現代の私たちの生き方にも通じるものもあるのではないでしょうか。

 

 

<お大師さまゆかりの地>

 

四国霊場八十八ヶ所

第二十番札所

霊鷲山 宝珠院 鶴林寺

(りゅうじゅざん ほうじゅいん かくりんじ) 

鶴林寺は標高470mの『鷲が尾』の山頂にあります。

延暦17年(798年)に桓武天皇(西暦737〜806年)の勅願により弘法大師によって開創されました。

お大師さまがこの寺で修行をしていたところ、雄雌2羽の白鶴が代わる代わる翼を広げて杉のこずえに舞い降りました。みるとそこには5.5cmくらいの小さな黄金のお地蔵さんがあり、白鶴たちはこのお地蔵さんを守っていたのでした。

<約5分半の動画で鶴林寺の紹介をされています>

この出来事に感動したお大師さまは、近くの霊木を切り、高さ90cmほどの地蔵菩薩像を彫られ、白鶴たちが守っていた黄金のお地蔵さんを胎内仏として納めて御本尊とし、寺の名前を鶴林寺としました。

また、境内の山の姿がインドで釈尊が説法をしたと伝えられる霊鷲山に似ていることから、山号を霊鷲山と定めました。

所在地:〒771-4303 徳島県勝浦郡勝浦町生名鷲ヶ尾14

お問い合わせ:0885-42-3020(TEL)

交通アクセス:四国八十八ヶ所霊場會

 

 

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