こんにちは。広島の作業療法士の川本健太郎です。
今日は、高野山真言宗 僧侶の川本祐道(ゆうどう)として、仏教に関するちょっとした小話(こばなし)をします。
サクッと読めるように心がけていますので、お気軽に読んでみてください。
(*´▽`)ノノ
今日のアイキャッチの画像は、四国八十八ヶ所霊場第五番霊場 地蔵寺(じぞうじ)の本堂(ほんどう)の写真です。
(*^-^*)
教育こそ国の基本と考える
お大師さまが生きた平安時代には官学(かんがく:今でいう国立)の
大学寮(だいがくりょう)
という官吏養成(かんりようせい:今の国家公務員養成)のための学校がありましたが、ここに通えるのは皇族、貴族の男子のみといった特権階級にある人だけでした。
また、地方には
国学(こくがく)
というものも置かれましたが、これは地方官僚養成のための学校で、こちらも地方の豪族など、権力を持っている子弟のみが通える学校でした。
お大師さまは天長5年(828年)に
綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)
という学校を開き
向上心がある人なら身分に関係なく誰でも自由に学べる所
とされました。
綜芸種智院の『綜芸(しゅげい)』とは、いろいろな学問を綜(そう)べ学ぶ、つまり
総合的に学ぶ
ことであり、『種智(しゅち)』は
仏さまの智慧(一切智智:いっさいちち)を植える
ことを意味しています。
お大師さまは綜芸種智院を作るにあたって、このように述べられています。
「仏さまも仏教の学問と世間の学問とを兼ねて学んで偉大な覚り(さとり)を成しているし、賢い人たちも様々な智慧を見せています。
どんな料理でも五味(甘い・酸っぱい・鹹味:かんみ=塩味・苦味・辛味)のうち、たった一つの味だけで美味しい料理を作っているものはありません。
五音(宮:きゅう・商・角:かく・微:ち・羽:う)のうち、一つの音だけで絶妙な曲を作っているものなどいまだにありません。
社会で身を立てるための要諦(ようてい:肝心な所)、国を治める方策、そして生死の苦しみから脱するのも、この学藝兼学(がくげいけんがく:総合学問)によるのです。』
<性霊集巻第十>
お大師さまは、才能ある人も無い人も、学びたい心があって学べる場所や学べる科目を選択できる自由があれば、その人の将来は大きく開けてくるということを信じていたのだと思います。
お大師さまは中国の唐に渡り、最先端の学問を学べる学校教育制度が充実していた中で密教以外の学問をも学んでいく過程で
いまだにごく一握りの人しか学べない日本の学校のあり方に危機感を抱いていた
ところも、綜芸種智院を設立させたかった大きな理由でもありました。
「これからの将来を担う若者を育てなくてどうする」
(๑•̀ㅂ•́)و✧
というお大師さまの想いは
社会の興亡(こうぼう:栄えたり滅んだり)は人あってのことである
その鍵を握る、人の浮き沈みは、どの道の教えに行くかにかかっている
<性霊集巻第十>
という言葉からも、うかがい知ることができます。
いつの時代も、教育に力を入れないと、その国は滅んでしまうことをお大師さまは平安の時代にすでに強く感じておられたのでしょうね。
<お大師さまゆかりの地>
四国霊場八十八ヶ所 第五番札所
無尽山 荘厳院 地蔵寺
(むじんざん そうごんいん じぞうじ)
嵯峨天皇の命により、弘仁12年(822年)に弘法大師(お大師さま)が開創されました。
お大師さまは自ら勝軍地蔵菩薩(しょうぐんじぞうぼさつ)を彫られ、本尊に安置したと伝えられています。
<約4分半の動画で地蔵寺の紹介をされています>
地蔵寺は、嵯峨天皇をはじめ、淳和天皇(在位823〜833年)、仁明天皇(在位833〜850年)の3代にわたり天皇家が篤く帰依されました。
さらに勝軍地蔵菩薩の信仰から、鎌倉時代には源頼朝、源義経をはじめとする武将たちからも篤く信仰されていました。
戦国時代の戦火によってお寺の大部分は灰となってしまいましたが、その後、歴代の住職や僧侶や信者さんたちの尽力により、お寺の再建がされ、現在の姿を残しています。
堂内には270体におよぶ等身大羅漢像と樹齢800年を超える大銀杏が訪れる人を暖かく出迎えてくださいます。
所在地:〒779-0114 徳島県板野郡板野町羅漢字林東5
お問い合わせ:088-672-4111(TEL)
交通アクセス:四国八十八ヶ所霊場会
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